after glow
編集後記(20)




 ある種の人々が、知らない土地に行くと必ず酒場を飲み歩くように、必ず女を買うように、僕は知らない土地に行くと、必ず喫茶店を訪れます。
 たとえば旅先の朝。宿の周りを散策して、いかにもその街に馴染んだ風合いの喫茶店を見つける。窓から中を覗くと、カウンターにはタクシーの運転手とか洋品店の主人とか、定年退職したのに朝七時に目が覚めてしまいやることがなくて仕方なしに出歩いてきたおじさんとか、そんな常連客が肩を寄せている。
 ‘カランコロン’とドアを開け、窓際の席に座ってモーニングを注文する。
「岩田さんとこの敷地、今度パチンコ屋になるらしいよ」とか「由佳ちゃんもう中学生になるのかぁ」とか「この間のフジマルの火事、放火らしいね」とか、そんな話し声に聞くともなしに耳を傾けながら、珈琲をすすり、トーストをかじって、冷たい水を飲む。そして一服。

 良い喫茶店には、良い時間が流れているような気がします。喫茶店とは、あるいは時間を買うところなのかもしれません。珈琲一杯の代金に託して、憩いの時間と空間を買うところ。本を読んだり、空想したり、人と会ったり、食事をしたり----僕にとって喫茶店は、時に書斎であり、時に応接間であり、時に食堂でもあります。

『某処某人----至福の時間----』(同じようなタイトルの中国映画がありましたね)は、僕がそんな風にしてしばしば通っていた大好きなカフェが、幕を閉じるその時に生まれたささやかな物語。

 有名であれ無名であれ、非凡であれ平凡であれ、どんな人の生活や人生にも、ドラマがあり、物語があると僕は思います。重大なメッセージも有用な情報も啓発される哲学も、目を引く事件性も報道的必要性もない。瑣末で微少で、でも人がそれに触れた時ほんの少し心が震える----そんな物語を、僕はいつも探し歩いているような気がします。

 太平洋戦争が終わる前年、空襲で焼け野原と化した東京・有楽町のピカデリー(かつての「邦楽座」)で、芝居を演じたという女優の千石規子さんが、こんなことをおっしゃっていました。
「着るものも食べるものも、住むところすらないような中にあっても、たくさんの人が芝居を観に来てくれた。ドラマというのは、物語というものは、人間にとって絶対に必要なものなんです。それがあるからこそ、私達は人間なのです」
 さて、僕の描く物語には、それほどの値打ちがあるでしょうか?

(2005年1月5日発行『TALEMARKET vol.20』より)




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