Meet Earth
地球に触れている人達と出会う旅05


岡山県船穂町








 マスカット・オブ・アレキサンドリア。
 2000年以上も昔、アフリカ北部のエジプトに生まれたこの果物は、あのクレオパトラもこよなく愛したと言われ、かの地のアレキサンドリア港から世界中へと広まった。
 その名の由来は、「Musc(k)」(麝香)と「Cat」(猫)、つまり「麝香猫のような美しい香りに包まれたアレキサンドリア産のブドウ」。
 価格は、小売りにして1箱(2房入り)1万円から。最上級のものは3万円以上にもなる。
 1房に50〜60の粒をつけるので、最低でも1粒100円は下らない。
 「ブドウの女王」と呼ばれる所以は、こんなところにある。
 岡山県船穂町はマスカットの街だ。観光地として知られる倉敷市街から、北西へ車で20分。なだらかな丘陵地にビニールハウスの列が幾重にも連なる光景が見えたら、そこが船穂町だ。
 冬の盛り、12月からハウスの加温が始まる。出荷は5月初旬から。約半年もの間、温室育ちの女王は、最高のもてなしを一身に受け、たわわに実る。
積分の温度管理

「積分だよ」
 ブドウの樹の下で、S木さん(51)が言った。
 積分。
 よだれと落書きだらけだった「数学」の教科書が頭に浮かんだ。
 数学とか理科とか、そういうものをことごとく避けてこの職業を選んだ自分が、よもや岡山のブドウ畑で「微分積分」の話を聞くは思わなかった。
「アレキの決め手はな」
 S木さんが言う。アレキ----船穂町では、マスカット・オブ・アレキサンドリアのことを、みんながこんなふうに呼ぶ。
「積分の温度管理なんだよ。これがすべて。要するに積算温度」
 わからない顔をしている僕に、S木さんの父・N雄さんが、苦笑しながら説明してくれた。
「つまりな、テンペラチャー(温度)かけるタイム(時間)じゃ。その合計によって、アレキはできる」
 今年76歳になるN雄さんが、流暢な口振りで「テンペラチャー」と言った。
 つまりこういうことだ。芽が出るまでの約25日間は、おおむね25度以上。花が咲くまでの約30日間は20〜22度。最後の100日間は20度前後。
 それぞれの生育ステージで、時間と温度を掛け合わせた数値が一定に達しないと、女王は次のステージへと進んでくれない。
 冬にぐっすり眠っている木を無理矢理覚ますため、初期にいきなり高温をぶつけるのが、船穂町の加温栽培の特徴なのだという。
「枝ぶりとか葉の繁り具合とか木の勢いとか、そんなのを見極めながら温度を調節するんだけどな、とてもじゃないけど5年や10年じゃできない芸当だ」
 関数のグラフの形を手で示してみせながら、S木さんが言った。

芸術の高み

「ブドウの顔」、つまり房がもっとも美しく見える角度を確かめ、慎重にハサミを入れる。
 表面についた白い粉(果粉----これが鮮度と品質の証明となる)を指紋で落とさないよう、細心の注意を払って摘み取る。捧げ持つように運び、そっと箱に入れる。
 色、大きさ、房の形など、釣り合いのとれたものを選んで、隣に置く。長さを調節し、粒の向きを直し、高さを合わせ、形を整え、ようやく一箱が完成する。
 詰め合わせた箱をしばし満足げに眺めるS木さんの表情は、自分の作品を眺める芸術家のそれと、寸分変わるところがない。
 それはそうだろう。
 ブドウの花穂の数は、最初の段階で1000〜1200。それを最終的には50〜60の果粒にまで落としていく。そのために、花切り、粒間引き、玉揃え、仕上げ間引きと、半年にわたって何度も何度も手を加え、房の形を整える。
 僕らが当たり前のように眺めているあのブドウの形は、彼らの緻密な計算に基づいた、気の遠くなるような細かい手作業によって完成する。
 世紀を越えて人々を魅了し続けるブドウの女王は、目と手と足と頭、作り手のおよそ全ての技の「積分」によって、完成する。

(2003年6月1日発行『TALEMARKETvol.06』「女王の積分」より)





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