Meet Earth
地球に触れている人達と出会う旅09


広島県尾道市


photo by Hitoshi Hayata





「無花果」と書いて、「いちじく」と読む。
 この果樹は花が咲かない----いや、正確には咲く。
 熟れた果実の中の、赤くて小さな無数の粒。これがイチジクの花である。
 一日に一果ずつ熟すので「いちじゅく」、あるいは中国名の「インジェクフォ」がなまって「いんじゅく」----等々、その呼び名の由来は諸説ある中で、一日で熟してしまうから「いちじゅく」=「いちじく」という説がある。
 一日と言わず、一時間足らずで熟してしまうこともある。それほどに「足が早い」----つまり、日もちがしない果物である。
雄 無用

 志賀直哉や林芙美子といった多くの文人墨客が足跡をとどめた街。あるいは、映画監督の小津安二郎や大林宣彦の作品で描かれた映画の街。造船業などの工業地帯を思い浮かべる人もいるだろうか----広島県尾道市は、知る人ぞ知る、無花果の街でもある。
 この地で栽培されているのは『蓬莱柿』という東洋種。現在、日本で栽培されているおよそ八割は、『桝井ドーフィン』と呼ばれる西洋種で、これは20世紀初頭に広島県の桝井光次郎という人がアメリカから輸入したものだ。
 蓬莱柿は300年以上も昔から日本で栽培されている、生粋の在来種である。
 外皮が薄くて可食部が多い。酸味が少なく果肉がやわらかい。真ん中から割って外皮をぺろりとむき、そのまま口に放り込むと、濃厚な甘みと果汁がいっぱいに広がる。噛むとやわらかい果肉がとけ、種がぷちぷちとはじける。
「官能的な味でしょう」
 大粒の無花果を口一杯に頬張っている隣で、農協のO宮さんが言った。
 じつはですね----意味ありげに続ける。
「旧約聖書でアダムとイヴが食べた禁断の果実ってあるでしょう。あれって何だと思います?」
 そう問われて答えはあらかた予想がついたものの、
「林檎、じゃないんですか?」
 そう答えると彼は、我が意を得たりという顔を見せ、こう言った。
「あれね、実は無花果じゃないかって言われているんですよ」
 たしかに----。無花果の木は、古代より平和と豊穣の象徴とされてきた。旧約聖書には無花果に関する記述が多く見られるし、古代ギリシャやローマの壁画などでも、無花果の果実が描かれたものは多くある。
 そもそも、無花果が豊穣の象徴とされるのは、「単為結果」と呼ばれるその特異な受精方法にあるような気がする。
 ほかの果樹と同様、雄と雌の木があり、実がなるのは当然雌なのだが、無花果という果樹は、受精をせずとも種を作り子を育てることができるのだ。
 だから、多産の象徴でもある。

よるべなき身

「昔はどこの家の庭先にもイチジクが植えられとった。よう木登りしては食いましたよ。甘いもんがぜいたくな時代、子どもにとっちゃ最高のおやつじゃったなあ」
 40年以上、無花果を作り続けているY田さん(71)が語る。
 尾道市では大正末期から無花果の栽培が始まり、昭和初期には神戸や大阪などへも市場出荷していた。その後、桃やミカンなどへの改植が進み、いっとき衰退するものの、ミカン価格の暴落、米の生産調整などにともない、昭和四十年代後半、ふたたび無花果への転換が図られる。
 しかし、港町である尾道はもともと漁業と工業の街。バブルの波が押し寄せるなか、バイパスや大橋の開通、臨海工業団地の造成などにより、街はかつてない好景気に浮かれていく。
 しぜん、農地から人足は遠のいていった。
「その頃25人いた若手の農家も、離農したり勤めに出たりして、残ったのは3人だけじゃった」
 Y田さんが述懐する。残された者達にとって無花果は、よるべなき身の最後のよりどころでもあった。
 深夜に収穫した無花果をリヤカーに乗せ、朝駆けで市場に持ち込んだこともある。
「腐っとるやないか! こんなもん売れるか!」
 小売店からそんな電話がかかってきたこともある。
 30年余の歳月をかけて確立した無花果の栽培技術は、すべてが手探りだった。
 そして今----栽培面積は20ヘクタールを越え、農家は250人を数えるまでに成長した。

秘密の果実

 一年を通して温暖で雨が少ない。地中海性気候によく似た尾道の気象風土は、無花果の栽培に適していた。しかし今年はというと、
「冷夏と長雨でたいへんじゃけんのう」
 早朝の畑を訪ねると、K志さん(61)がそう言って収穫の手を休めた。出荷は例年よりも一週間以上遅れ、着色もあまりよくないという。
 デリケートな果実を傷めないためか、手にはビニールの手袋をしている。
「それもあるけどのう、手が荒れて痛うてやれんのよ」
 そういえば、イチジクを食べると手や口のまわりがかゆくなることがある。これは、茎や葉の切り口から分泌される白い液体によるもので、タンパク質を分解するフィシンやリパーゼ、アミラーゼといった酵素が含まれているのだという。収穫のときに手袋をしないと、この液体が付着して手の平のタンパク質を溶かし、荒れてたいそう痛むそうだ。
 なるほど、「禁断の果実」には棘がつきものである。
 イギリスの詩人ロレンスは、作中でこの果実のことを「Fruits of the female mystery」と呼んでいる。いわく、
 長く秘密を守ったあげく、やがて小さな口をぱっくりと開けて、熟しきった深紅の内部をさらけ出し、そして腐敗がすぐに始まる??。
 旧約聖書ではアダムとイヴが食べた禁断の果実は特定されていないが、二人はその実を食べて目を開き、初めてお互いが裸体であることに気づく。その時に腰を覆うものとして用いたのは、他でもない、このイチジクの葉なのである。(旧約聖書 創世記3章7説)
 大きな葉っぱを一枚手に取り、しげしげと眺めながら、K志さんが心底まじめな顔で言った。
「しっかしこんなもん股間につけたりしよったら、かゆうて大変じゃったろうにのう」
 花なき果実の花は、豊穣のシンボル。尾道の人々の色んな思いを、その実の内に咲かせている。

(2004年9月1日発行『TALEMARKETvol.09』より)







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