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〜転轍機を探して〜
03

〈2007年12月〉


Illustration by NURI

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12月3日(月)

 熊本で農家取材、東宝スタジオで黒澤明の長女の撮影、つくばで学者のインタビューと、慌ただしかった一週間が終わり、今週は原稿執筆と入稿作業。年末進行がいよいよ本格化する。
 夜、プロダクションP社・A氏よりメール。
「今日、D社と打ち合わせをしました。なるべく早くC社にプレをして、あなたをチーフエディターとした編集室の準備が整っていることをアピールします。プレに出席できそうなら、ぜひ参加してください」
 いよいよクライアントへのプレゼン。ここからが本番だ。が、僕がその場に同席することについてはどうなのだろう? つまりkosemurayasutoという人間は、立場的にまだ全くの第三者である。P社と代理店D社が決定した編集長候補なのだからとA氏は言うけれど、あくまでそれは内々の話であって、クライアントC社が出席するオフィシャルな場で、自分が一体どういうポジションになるのか、今ひとつイメージがつかない。そこでA氏に電話を入れ、
「プレに出席するのはやぶさかじゃないんですけど、まだ僕は立場上外部の人間なので、その辺は大丈夫ですか?」
「そうだねえ。一応先方にはあなたの立場について正直に説明しようと思っているけど」
「あまり格好がつかないようなら、その場しのぎでいいのでとりあえずP社の名刺を数枚作ってもらって、それを持って行くとか?」
「ああ、それがいいね。今の会社の名刺とフリーの名刺、それにうちの名刺を3枚持っていったらカッコいいね」
 格好良いとかどうとかいう問題ではない気がするのだが......デザイン業界の人って、やっぱり感覚がちょっと違う。


12月4日(火)

「プレの結果次第では1月末から来てもらうことになるかもしれません」
 A氏からそう言われ、僕はちょっとばかり頭を抱えていた。「円満退社」の理想型としては、3月末で退職して4月から心機一転----という流れだ。僕がいま在籍している編集部は、ただでさえスタッフが足りず殺人的な忙しさだというのに、僕が年度途中で抜けたら、いよいよ死者が出るんじゃないかという有様になるのは火を見るよりも明らか。しかも1月はレギュラーに加えてムックの仕事も入るだろうし、カレンダー上日数が少ない2月は、制作スケジュールがなお一層タイトになるし......。どう考えても1月末退職というのは、ものすごい迷惑をかけることになる。
 基本的に僕は、組織そのものに対してほとんど執着を持っていない。僕自身、昔も今もひどく浮いた存在だし、13年在籍していながらいまだに「変わり者」、どうしようもないアウトサイダーだ。だから遅かれ早かれ辞める時は、何の感慨もなくすっぱり切るだろう----ずっとそう思っていた。
 だけどいざ現実のシナリオを目の前に掲げられると、ガラにもなく悩んでいる。ごく少数ではあるけれど、ほんのひと握りいる理解者----僕みたいな異形の者と価値観を分かち合ってくれる稀少な人々の顔が浮かんだ。
 しかし僕のそんな迷いをよそにA氏は、
「スタートしたらD社を中心に動くことになるから、あなたは基本的にP社に在籍してもらいつつD社に出向、もしくはD社の契約社員という形で、CとDの名刺を両方持って動いてもらうことになると思う。今のところ、P社とD社内の両方にあなたの席を作ろうという話になっています」
 とか、
「編集長兼プロデューサーということで、コセムラクンには雑誌の制作だけじゃなく、C社の様々な広告やイベントのプロデュース、それにC社お抱えの有名写真家の相談役、それに新人アーティストの発掘など、編集以外の部分でも色々動いて回ることになると思う」
 とか、具体的な仕事内容を逐一提示してくる。ガラにもなく悩む僕を尻目に、事態の進展はどんどん加速度を増していく一方だった。
 そんな時、かつての後輩にして転職では貴重な先輩にあたる友人のU氏と会う。
「会社にしてみれば、コセムラさんが抜ける穴は、一月でも三月でも大きな痛手であることに変わりないと思いますよ」
 だからこそあまり気にせず、自らの思いに素直に従うべきだ----と彼女は言う。
 また、稀少な友人である編集者S氏は、自身が途中退職した時の生々しいエピソードを初めて披瀝して、
「所詮会社はどんなに優秀な人がいなくてもすぐに慣れるもの。後のことは気にしなくても大丈夫。結局は自分の人生なんだから」と、いかにもな一刀両断の助言。こんな時、先達からの貴重なアドバイス々は、ことのほか身に沁みた。



12月5日(水)

 起床とともに腰に凄まじい痛み。この3日間徐々に悪化しつつあった持病の腰痛が、いよいよ危険水域に達したようだ。
 しかし約束が詰まっているため、鎮痛剤とコルセットで這うようにして出社。
 午前11時、飯田橋にてライターのM氏と打ち合わせ。写真家K氏の知己の方で、この件では早くから貴重な情報を多数寄せてくださり、間接的に大変お世話になっている。僕が編集スタッフを探していると知り、すぐに立候補してくれたのだ。とりあえず履歴書や経歴書などを預かり、簡単な打ち合わせをして別れを告げ、僕はその足でP社に向かった。
 午後1時30分、P社銀座ビルにてA氏と打ち合わせ。新橋駅からの道順もすっかり覚えた。それにしても新橋通勤になったら、僕が住んでいる横浜からは東海道線で25分。現在の飯田橋より30分以上も通勤時間が短縮できる。これはいい。会社を辞める理由は、「遠いから」ということにするかな......。
 P社でスタッフ体制について打ち合わせ。アートディレクター(AD)候補として僕が推薦したM氏(テルマ表紙担当デザイナー様)は、20年ほど前にA氏もお会いになったことがあるとのこと。また、本誌巻頭言にご寄稿いただいているK氏のことも、よくご存じだという。
 全ては一番最初に紹介してくれたデザイナーS氏から展開しているつながりなので、様々なところで意外な人同士の接点や発見が重なる。こういうところからも今回の話には「縁」を感じたりした。
 AD、デザイナー、編集ライター、アシスタントなどのスタッフ体制について、また編集室のシステム環境、さらには僕の雇用条件など、具体的な内容について打ち合わせた後、P社の若手スタッフと顔合わせ。
 一時間余の打ち合わせが終了し、銀座ビルを出たところで、腰痛のため一歩も歩けなくなる。何とかタクシーに乗り込み、接骨院で鍼治療を受けてそのまま帰宅。


12月6日(木)

 朝からギックリ腰で全く身動きできず、欠勤。A氏より「プレの日程が12月12日に決まりました。出席できますか?」とのメール。
 あいにくその日は、レギュラーの仕事の最終校了日のため、編集部を空けることは不可能。その旨を伝え、D社及びP社に最終プレを託すことに。
 企画書の内容について、いくつかの改善点や追加事項などを伝える。


12月7日(金)

 トイレに行くのも10分かかるような症状からは何とか抜け出せたものの、階段の昇降や電車移動は全然無理。とはいえ入稿中なので作業を滞らせるわけにもいかず、在宅で仕事を進めることに。一応自宅は「編集事務所」を名乗っている手前もあり、雑誌の制作環境はソフト、ハード全て整っている。正直、毎日出勤なんかしなくても仕事はできてしまうので、いっそ在宅勤務にしたいものだ。それでも普通の人の2倍の仕事量だって半分の時間で片づける自信はあるんだけど.....。


12月11日(火)

 ギックリ腰というハプニングに苦しみつつも、今年最後の入稿作業がようやく終わる。夜10時、編集部のデスクで一休みしていたところにA氏よりTEL。
「あなたの写真、ない?」
「写真? 何でまた?」
「明日のプレの資料を作っているんだけど、あなたの経歴書も入れるから、せっかくだから写真をつけた方がカッコいいかなと思って」
「せっかく」の意味がよくわからないものの、わざわざそこまでしていただくこと自体恐縮なことであり、しかも明日のクライアント・プレには出席できない心苦しさもあって、
「家に何か使える写真があるかもしれないので、帰ってから送ります」
「ゴメンね、なるはやでお願いします」
 なるはやという言葉を、僕以外で普通に使う人と初めて出会った。
 そそくさと帰宅し、セルフポートレートを探す。オフィシャルな写真となると、以前トーク&ミニライブのパンフレット用に撮影した「ホスト系写真」しかない......。使うかどうかは相手任せとして、とりあえず送る。やれやれと思い入浴しているところに再び電話。
「経歴書のデータある?」
「ありますけど、インデザですよ」
「そうなんだ......A4の横サイズで作り直したいんだけどなぁ」
 Wordあたりで作ったデータならA氏も簡単に作り替えられると思ったのだろうが、こちとらIBMもマイクロソフトも死ぬほど嫌いな人間である。ウィンドウズなんて使うわけない。
「10分時間をください。A4横フォーマットで作り直して、PDFにして送ります」
「そんなにすぐできる?」
「......15分」
 時刻は午前0時だが、P社は明日のプレの最終準備に追われている様子。参加できない身としては、せめてやれる限りの後方支援をしたい。僕は8分で経歴書を作り直し、A氏に送った。
 最終のプレを前にいよいよ大詰め。それにしても直前になってのこのドタバタ感は、10月以来続いたジェットコースターのような事態の急旋回っぷりを象徴しているようだ。
 その日はベッドに入ってからもなかなか寝つけなかった。


12月12日(水)

 プレ当日。レギュラーの月刊誌の仕事は、今日が今年最後の校了日。明日からは次号の仕込みでまた慌ただしい毎日となるが、それでも毎月最終校了明けには、スタッフ全員で打ち上げをする慣例になっている。
 しかしギックリ腰がまだ完治していないことや、P社からいつプレの結果報告の連絡が入るかもわからない状態なので、今日は校了後すぐに帰宅。
「正式に決まりました。早速一月から来てください」
 そんな連絡が来るだろうと思い、終日落ち着かなかったのだが、夜になっても電話は鳴らなかった。


12月13日(木)

 プレ翌日。連絡はまだ来ない。
 かつて同じ編集部で仕事をしたことがあり、今は別セクションにいる先輩2人と久しぶりに社内で会い、30分ほど話をする。2人ともすっかり偉い肩書きがつき、ネクタイを締め、何人もの部下を抱えている立場。だけど久々の遭遇につい昔を思い出し、下らない話で大盛り上がりになる。立ち話にも関らず、久しぶりに腹を抱えて笑った。わずかな時間だったけれど、そういえば社内でこんな風に声を出して笑ったのは何年ぶりのことだろうと、ふと思った。
 夜になっても、P社から連絡は来なかった。


12月14日(金)

 週末を前に、さすがに今日は連絡があるだろうと思いつつ、出社。
 夕刻、本誌巻頭言でも大変お世話になっている作家のK氏が編集部を訪問。夕食をともにし、久方ぶりにたくさんお話をする機会に恵まれる。
「食べ物のことを大地の目線できちんと正しく伝えるメディアというのは、人が生きていく上で欠くべからざるものだし、間違いなくその重要性はこれからさらに増していくよ」
 『IのH』がどうの『CJ』がどうのJAがどうのなんていう次元を超越したところで語られるK氏のそんな言葉に、ここずっと言いようのない徒労感に見舞われていた身が、引き締まる思いがする。
 「kosemurayasuto」という人間を本当に必要としてくれる場所でこそ、自分の力を使いたいと思っているけれど、現在の職場では「必要とされている」のではなく、単に都合良く「利用されている」だけに過ぎないという思いがずっとあった。だけどそれはとても近視眼的な、視野狭窄に陥った思考なのだと気づかされる。
 だけどその一方で、編集者なんて「芸者」みたいなものだと僕は思っているから、お座敷から声が掛かれば出て行って芸をするまでのこと。「こせ奴(やっこ)」という芸者を指名して声をかけてくれるお座敷と、安いし器用だし便利だからといった程度で呼ばれる座敷となら、果たしてどちらを選ぶだろう?
 ----今日も連絡は来なかった。


12月15日(土)

 これまで何か動きがあるごとに、逐一相談や報告があったのだが、先日のプレ以降、ピタリとそれが止んだ。プレが失敗に終わったのだろうか。あるいはプロジェクトが流れてしまったのだろうか----想像は悪い方にばかり膨らむ。
 これまでこの手の話を受けたことは何度かあったが、眉唾だったり胡散臭いなと感じたり、どこかグレーな部分があったりするものについては、大概嗅覚が働いたものだった。しかし今回は、かなりカタい話であるという手応えがあった。......読み誤っていたのか?
 しかし相手は天下の大企業C社が直々に出張ってきている話であり、しかも間にはD社という大手広告代理店がしっかりと入り込んでいる。そんなプロジェクトがそう簡単に流れるとは思えない。......となると、企画OK・人選NGという結論? つまりkosemurayasutoという人間では役者不足、とクライアントが判断したとも考えられる。確かに大手出版社の花形編集者などと比べれば、僕のバックグラウンドなど見劣りするに違いない。それなら間に入ったP社が僕に連絡しづらい、という状況も説明がつく。
 元々悲観的な人間であるせいか、イメージはどんどん悪い方向に傾くのだった。


12月16日(日)

 こちらから連絡をしてみようとは何度も考えたのだが、それは筋が違うことだと、その都度思いとどまった。
 僕がこの世界に入ったばかりの頃、当時の編集長から何よりもたたき込まれたことがある。それは「礼節をわきまえ」、「仁義を重んじ」、「筋を通す」ということ。まるで任侠の世界のように思われるかもしれないが、これは編集者云々という以前に、人として最低限の所作だ。
 当たり前のことと思われるかもしれないが、存外こういうことをきちんとやれる人というのは、僕の知る限りにおいて滅多にいない。親しき仲においてはなおのこと、これまで何度も不快な思いをしてきた。
 僕の方からP社に連絡を入れて問い合わせるのは簡単なことだし、それがどういう結論であれ、少なくともこのモヤモヤ感は解消できる。だけどそれは、筋が違うのだ。あくまで向こうから連絡を入れて報告をするのが本筋であり、こういうことの仁義であり、最低限の礼節だ。
 僕は別に四角四面の杓子定規を振りかざす人間じゃないけれど、でも本気で一緒に仕事をしたいと思ったり、あるいはずっと付き合っていきたいと願う人間に対してだけは、そういう信頼関係を望む。
 僕自身かなりしんどいことではあるけれど、とにかくこちらから連絡を入れるのは我慢した。もしも先方がそういうことをないがしろにする種類の人であるなら、一緒にやっていくつもりもなかった。
 ある意味これは向こうにとっても僕にとっても、踏み絵みたいなものだった。


12月17日(月)

 今年最後の取材で、愛媛県の内子町を訪ねる。終わって夜に松山市内へ戻ったところで、携帯が鳴る。
「連絡が遅くなってスイマセン!」
 開口一番、陳謝するA氏の声は、ひどく急いていた。
「実はプレで色々あって、『おいおいちょっと待ってよ』みたいなことが結構クライアントから出されたもので、今その対応に追われているんです。電話で簡単に説明できることでもないと思って、でもなかなか会いに行く時間が取れなくて、連絡が遅くなってしまいました。本当にごめんなさい! 改めてちゃんと報告するので、もう少しだけ待ってもらえますか」
 それだけ言うと、慌ただしく電話は切れた。

〈つづく〉

(2008年2月1日発行『TALEMARKETvol.54』より)







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