wayside
某処某人10
青森県青森市
◆ローカル・ジャパン◆
風が、やってくる。 周囲の木立を揺らす音が、次第に近づき、そして去っていく。 家族連れやグループ、団体客など、辺りにはたくさんの人がいて、間違いなくここは観光地なのだけれど、ありがちなアノ嫌な喧噪がないのだった。 不思議な居心地のよさを感じながら、僕は巨大なモニュメントの前に突っ立って、飽きもせずにそれを眺めていた。 「陸奥」青森、三内丸山遺跡。 言わずと知れた、全国随一の縄文遺跡群がある場所に、僕はいた。 ずっと、訪れてみたい土地だった。 そもそものきっかけは、ある雑誌の仕事だった。今から八年ほど前、僕は『地上--GOOD EARTH』という雑誌を作っていて、そこであらゆること、今の自分に至るおよそ全てのことを勉強させてもらったのだが、そこでの膨大な仕事のうちの一つに、毎月のニュースページがあった。 H川H次さんという大変厳しい執筆者の方がいて、毎月末になると、北海道新聞から沖縄タイムスまで、全国各地の地方紙を1カ月分1ページも漏らさずに読み、その中から面白そうなネタを200本くらいピックアップしなければならなかった。それを細川さんのところに持っていき、ああでもないこうでもないと打ち合わせをして、5、6本まで絞り込み、毎月のニュースを作るのだった。 「ローカルジャパン」がテーマだった。 今、僕たちが日々目にしているニュースや情報というのは、圧倒的に東京中心のものばかりだけれど、よくよく考えれば、東京だってこの列島の中の一地方に過ぎない。たまたまたくさんの人や情報が集まっているだけで、それを「中心」としなければならない理由なんて、これっぽちもない。せめて僕らが作るニュースぐらいは、 東京発のニュースを徹底的にはずし、ローカルニュースを正しくクローズアップしていこうじゃない----そんなコンセプトだった。 社会・時事ネタはもちろんのこと、経済、環境、文化や歴史、健康にいたるまで、あらゆるジャンルのネタを毎月セレクトしていたのだが、このH川さんという人物が好むネタ、好まないネタというのがあって、歴史ネタに関しては、「縄文大歓迎、弥生大嫌い」という、妙な偏向性があった。 一度、夜中の2時過ぎに打ち合わせをしながら、その理由を聞いてみたことがある。 話が終わったのは確か明け方の5時頃だったと思うけれど、それは、僕のそれまでの歴史観をことごとくひっくり返す、壮大な物語だった。 僕らが歴史の教科書で学んだ古代史というのは、かつて縄文という時代があって、毛皮の腰みのか何かをつけた毛むくじゃらの人たちがいて、狩猟と採集をしながら、まあいわば「原始的」な暮らしをしていた。 それが弥生時代になってようやく稲作が生まれ、人々は定住し、家を持ち、現在に至る文明らしきモノがそこから始まった----とまあ、そんなところだ。 違う(よバカ )、と細川さんは言った。 歴史というのは、ことごとく為政者つまり支配者にとって都合のよいように作られる。だからこの国というか列島の歴史の真実を知りたかったら、逆から見なくちゃいけない。そう彼は言うのだった。 曰く、この弓なりの列島には、かつて自然とともに暮らし、木や草や石にいたるあらゆる万物に神が宿ると考え、共存し、収奪せず、ピースフルに暮らしていた人々がいた。 彼らは、土器に縄の目で紋様をほどこすデザインを好んだ。 ある日、隣の朝鮮半島から民族紛争で追われた人々が海を越えてこの列島に押し寄せた。彼らは圧倒的な武力をもって先住の民=縄文人を侵略していった。 土地を耕して作物を植え、土地に線引きをしてお金に換算する思考をもちこみ、やがて大和朝廷を打ち立て、この列島を「日本」と名づけた。 それが現在の平成天皇にいたる皇室の始まりとなるわけだが、もともとアメリカでネイティブ・アメリカンの文化を研究し、強い影響を受けていたH川さんにとって、いわばアメリカ大陸の白人に相当する、この弥生人の文化を記事で取り上げるなんて冗談じゃねーや、といったところだったのだろう。 ふうーん ノ ノ。 とは思ったものの、正直、ホンマかいな、というのが僕の感想だった。 それが「刷り込み」という歴史教育の根深い怖さでもあるのだが、その後、三内丸山遺跡が発掘され、鯨まで加工して食べていたという縄文時代のぜいたくな暮らしっぷりがどんどんわかってきて、僕自身、色んな古典や文献などを調べるともなしにつらつらと眺めていくうちに、どうもこの列島の支配階級の話には、「胡散臭さ」とか「キナ臭さ」みたいなものが鼻につくようになった。 僕らが縄文と弥生のメスティーソ(混血)であることも何となくわかった。 じゃあさ、それはいいとして、先住民である縄文人たちは、一体どこに行ってしまったわけ? ----その答えが、東北にあった。 ◆縄文のため息◆ 岩木山を左手に見ながら、奥羽山脈の真上を、飛行機はのろのろと進んでいく。 別に飛行機のスピードが遅いわけじゃなくて、森深い山がどこまでもどこまでも続いているのだった。 がらにもなく、空港で買った青森県のガイドブックなどを開いてみると、「秋の陸奥、青森へ」の大見出し。 「陸の奥」と書いてみちのおく、みちのくと読む。何とも蔑視的表現だなあと、つくづく思う。 中国地方の日本海側を山の陰、山陰というのにも抵抗を感じる。何で東京に向かう電車が「上り」で、東京を出る電車は「下り」なのか、それもイヤな感じだ。 まあそういうことは置いておくとして、東北地方というのは、いわば日本の辺境扱いというか、蔑視されてきたことは否めない。 征夷大将軍の坂上田村麻呂が「東征」に成功して平定するまでは、「蛮族」がうようよいて、ことあるごとに朝廷に刃向かう土地、そんなイメージが、歴史上にもある。 でも、この「蛮族」というのは、別によそからやってきてこの列島の東北方面に住み着き荒らしていた民族というわけじゃなくて、もともとこの列島に先に住んでいたのだけれど、突然船に乗ってよそからやってきた人たちに、住む場所を追われ、気候も自然条件も最悪の東北方面に逃げざるをえなかった人達。どちらを蛮族とするかは、要するに拠って立つ側の違いに過ぎない。 侵略の玄関口になった出雲とか、帝都が置かれた京都とか、その辺りには縄文の遺跡はほとんど残っていない。 つまり、支配者にとって侵略の証拠となるようなものはことごとく破壊され、消去されてしまっているけれど、奥羽山脈の深い森に守られ、為政者の支配の手から何とか逃れることができた東北地方には、幸か不幸かそれが手つかずで残っている----三内丸山遺跡はその最大にして最高の証拠であり、象徴でもあると僕は思っている。 さて、そんなあれやこれやを抱きながら、青森市郊外にある三内丸山遺跡を訪ねたわけである。 が、いざ念願の場所に立った僕はというと、何だかどうでもよくなってしまった。 初秋の風が心地よくて、周囲の山々はまだ紅葉には早いけれど、天高く雲雀の声が聞こえていて、ここに来るまで色々と頭の中でこねくり回していた理屈とか仮説なんて、何だかどうでもよくなってしまっていた。 94年に発掘され、復元された「大型堀立柱建物」(高さ8・4メートル)の下に立ち、「でっかいなぁ」とか言いながら、ただひたすら口をぽかんと開けて眺めているだけだった。 竪穴式住居の中に入り、薄暗い闇にうずくまりながら、「何か落ち着くなぁ」とか言っているだけなのだった。 (そういえば遺跡群の中に円錐型の小さな竪穴式住居があって、室内には浅い穴がいくつか掘られており、遺跡の説明看板には「何に使用されていたかはわからない施設」と書いてあったけれど、以前ネイティブアメリカン研究の第一人者であるK山K平さんから聞かされた、ホピ族が聖なるマリワナを吸って聖なる儀式を行うロッジと、その建物は組み立ても柱の作りも光の取り入れ方も、そして地面の穴も同じように思えた) 敷地には、発掘された土器の展示室があり、その中に縄文土器の失敗作らしきものが何点か展示してあった。 途中で投げ出されたりうっちゃられたり、ひねりつぶされたりした土器を眺めていると、何だか5000年以上も昔にこの列島で土をこねくり回していた人達の、ため息や舌打ちが聞こえてくるようなのだった。 (2002年10月28日発行『某処某人10』より) - |
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