wayside
某処某人12



岡山県真鍋島








◆花の島◆

「花を作ろうと思っているんだ」
 映画『瀬戸内少年野球団』で、郷ひろみ演じる正夫が、妻の駒子(夏目雅子)にそう話すシーンがある。
 敗戦後の瀬戸内の島で、義足となって復員した正夫が、島の農業委員会の書記の仕事を充てられ、思いを語る場面だ。
「こんな小さな島でですか?」
 駒子が訊ねる。
「うん。調べてみたら、この島は東京の八丈島と年間の平均気温がほとんど変わらないんだよ」
 笑顔でそう言う正夫に、駒子は、
「冬でも南側の斜面は、シャツ一枚で過ごせますものね」
 そんなふうに言う。
 実はこのシーンは、阿久悠氏による原作にはない。そもそも、花作りという設定すらない。
 脚本家の田村猛さんが、映画のシナリオ取材のために、ロケ地である真鍋島を訪れた際、島の人に聞いた話に感銘を受け、挿入したエピソードなのである。

 真鍋島の桟橋に降り立つと、「花の島まなべへようこそ」という看板が出迎えた。
 船が行ってしまうと、港に集まっていた人達も三々五々いなくなり、煙草を一本吸い終わる頃には、猫が一匹残っているだけだった。
 十二月といえば寒菊の出荷の走り、それなりのにぎわいがあるかと思ったが、まったくもって、閑散としているのだった。
 港から50メートルほどのところに農協の事務所があり、そこに「JA喫茶」という看板が出ていた。
 島の中で唯一の飲食店らしい。
 立ち寄って珈琲を頼んだ。
 農協の所長をしている浜西美穂さん(40)がキッチンに立って、ネスカフェを入れてくれた。
 聞けば、花の栽培が全盛期だった1960〜70年代には、300人近い農家がいて、農協の出荷額は5千万円以上あったという。それが2000年には21人、500万円。十分の一にまで減った。
 過疎と高齢化が、他に例を見ない速さで進んでいた。
 地図を借りて、島内を巡った。
 間違っていた、と思った。
 来る前に東京で調べたら、真鍋島で自動車が通れるのは周回道路一本だけで、あとは狭くて急峻な石段と坂道だけということだった。農家は、島の裏側の畑に行くのに、山を越えず船を出してぐるりと島伝いに行くという話も聞いた。
 実際はというと、自動車が通れるのは島の北側 、船が着く本浦の港から岩坪という地区を結ぶ道だけで、距離にして一キロ程度。それも、軽トラックが家の軒先をかすめるようにようやく一台通れるくらいの細さだった。
 あとは、ただ歩くしかない。
 人がすれ違うのもやっとの路地、そして傾斜30〜40度はありそうな斜面の山道。階段状になっている箇所も多く、そのせいで自転車はおろかバイクも無理である。
 寒菊の段々畑がある南側の斜面を登った。
 前日の雨が、道に積もった落ち葉を濡らし、僕は一度、派手に転んだ。
 笑う人はおろか、心配してくれる人も、そもそも、辺りには人の気配がまったくなくて、僕は一人ぶつぶつ言いながら、お尻をさすって歩き続けた。
 海が見えた時、風が渡った。
 かつて菊を栽培していた畑には、赤黒く錆びた電照用の鉄枠だけが残っていた。
 山道の脇にたたずむ石仏の横には、野に帰った菊が固いつぼみをつけていた。
 菊篭を背負ったお婆さんが、石仏の横によいしょと腰を下ろしでもしてくれたらなあと思ったのだが、いま自分がぜえぜえ言いながら歩いてきた斜面を登ってくる酔狂な人間が、もう一人いるとは思えなかった。
 山道をうんざりするくらい何度も登り降りし、教えられた「山の神」の辺りに着いたところで、道がなくなった。
 気がつくと、陽が暮れかけていた。
 次第に見えなくなる足下の細い道を辿りながら、僕は大急ぎで山を下った。
 途中、狸か狐にでも化かされているような気がした。

◆正夫と駒子◆

翌日、『瀬戸内少年野球団』のモデルになった夫婦が島にいると聞き、訪ねた。
 迷路のような路地を何度も行ったり来たりしながら、ぐるぐる回ってようやく教えられた家にたどり着いた。
 玄関で名前を7回呼んで、8回目を呼ぼうとしたとき、お婆さんが一人、家の奥から出てきた。
 片耳から補聴器が外れていて、ぴいいいいーっというけたたましい音を発していた。
 耳元で自己紹介をすると、奥に引っ込んでいき、一人のお爺さんを連れて戻ってきた。
 H一T夫さん、86歳。Y子さん、84歳。
 T夫と「正夫」、Y子と「駒子」。
 二人の姿を見て、老いた郷ひろみと夏目雅子をイメージしていた自分に気づいて、ちょっと恥ずかしくなった。
 時々何度も同じことを繰り返しながら、滝夫さんが花の話をしてくれた。

 終戦後、フィリピンから復員した滝夫さんは、村の農業委員会に就職し、農村振興の役を負った。
 当時の島は、半農半漁の暮らしとはいえ、漁業収入が農業の三倍近くあった。引き揚げや疎開者で島の人口は膨らみ、三千人を超していた。
 漁業は、海底を根こそぎかっさらうような乱獲だった。
 こんな漁では、やがて漁業がだめになる、滝夫さんはそう思った。農業、漁業の収入を半々にすること----まずは地道に畑を耕すことから始めなければ、と思った。
 花作りのヒントは、島を訪れた戦友の、「こんなに暖かいんなら、花を作りんさい」という言葉だった。

※『某処某人』休刊のお知らせ※
約半年間にわたってご愛顧いただきました本誌を、このたび休刊することにいたしました。ご愛読して下さった皆様には、心より御礼申し上げます
本当にありがとうございました。次回作に、ご期待下さい。
2002年12月13日 発行人


photo&text by tokosemurayasu
(c)KosemuraEditorialOffice All Rights Reserved